概要・歴史

歴史が古く、山中古文書によりますと、
「江州甲賀郡柏木庄宇田村二階堂と申すは、玉田寺・勝福寺なり」
宇田には二つの寺院がありました。
本寺は玉田寺であり
康応元年(1389年鎌倉時代)開山上人は無門和尚であります。
後に二つの寺院を一つにまとめ唯稱寺とし
貞享3年(1686年江戸時代初期)に
当時おくさい地(玉田寺の所有地)へ移動したが、
文化6年(1809年)佛の灯明により出火、
文化8年(1811年)速再建されました。

寺号の額

寛政12年11月(1800)に箱明記されているが
書状によると書面なく年号不詳
現在京都市上京区に西山宝鏡寺と云う臨済宗の寺院がある。
寛永21年(1644年)に後水尾天皇皇女の理昌女王(久厳尼)が入寺して紫衣を勅許されて以降、代々の皇女が入寺する尼門跡寺院となり、土地の名前から「百々御所」(どどのごしょ)と呼ばれた。又、人形寺とも呼ばれている。

寺号の軸

この宝鏡寺の住職が伊勢神宮に参拝される道中唯稱寺にて休息された。宝鏡寺は天明8年(1788年)の火災にて焼失。先の御縁もあり、唯稱寺の当時の住職が宝鏡寺の再建のため寄付献上された。
寛政12年(1800年)に百々御所の御染筆に相違なきご沙汰が記された、「百々御所御役人寛政書」とともに現在本堂に掲げられている寺号御染筆の軸一幅と御額一面を賜る。寺号額には皇室の菊の御紋章が四カ所入れられている。

軸の箱

軸の覚え書き

源智上人造立阿弥陀如来立像 模写

つきかげ会館の阿弥陀如来造は山門・檀信徒会館建築 落慶記念として富山県の故斎藤侊琳仏師に総本山知恩院の(重文)を模写造立を頂きました。お弟子の源智上人が法然上人の一周忌にあたり一体の阿弥陀如来立像を造立し供養の思いを表されました。
その阿弥陀如来を模写し源智上人造立阿弥陀如来立像の体内に560名の檀家結縁の皆様に念仏署名して頂き、阿弥陀如来の体内にお納め致しました。平和と皆様の幸せと極楽往生を共に願い建立いたしました

法然上人ゆかりのイチョウの木

法然上人が岡山の稲岡の庄の母のもとに戻る際、距離があったため、那岐の菩提寺の公孫樹の木を杖にしたとされる。勢至丸十五才の旅立ちの時、地面に挿して比叡山に出発されました。その際、公孫樹の杖を逆さに挿したため、枝が上から地面を這うようにつづいています。その公孫樹の銀杏を昭和五十年に五重相伝のお礼参りに行かれた時に唯称寺第二十二世安譽上人がひらって持ち帰り植えられた公孫樹の木です。

寺院名
宗教法人三録山 摂取院 唯稱寺
宗派 
浄土宗
本尊 
阿弥陀如来座像
   
法然上人像・善導大師像
   
什宝
石灯籠
正徳5年4月(1715)第2世還譽上人代